2009年06月16日

ガス遠心分離装置

工業用では砂糖の精製や、乳脂肪分を分離するために遠心機が利用されている。また化学工業用には結晶とろ液を分離する為の布張りの遠心機が利用されることもある。
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六フッ化ウランガスを超遠心機にかけると、原子量の違いにより同位体濃度に勾配が発生する。遠心機の原理で同位体を分離する装置をガス遠心分離装置と呼ぶ。天然ウランから濃縮ウランを製造するウラン濃縮を行う濃縮工場で使用されている。

超遠心機の発生する数十万Gであっても同位体の濃度勾配はわずかなものである為、高濃度側と低濃度側のガスをそれぞれ別の遠心分離装置に導く。ガスを連続的に多数の遠心分離装置へ多段階にかけることで同位体を高度に濃縮することが出来る。

遠心エバポレーター [編集]
遠心機を減圧にすると、強大な遠心力が溶液の突沸を押さえ込むため、試験管やディープウエルプレートなど微少量の溶液サンプルを小容量の容器のまま蒸発・乾固させることが出来る。このような目的で設計された遠心機を遠心エバポレーターと呼ぶ。

回転子の仕組みと超遠心機と同様であるが、筐体が減圧可能になっており、サンプル容器を赤外線輻射や温風の注入などで加温することが可能なようになっている。

2009年05月30日

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)とは天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

なお「天皇位をめぐる戦乱」であるため、戦前は旧制高等学校以上に進学しないとこの乱については教育されなかった。
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660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(日本書紀には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを日本書紀の創作とする説もある)に立てていたが天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。

12月3日(672年1月10日)、近江宮において天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(8月3日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

2009年04月27日

意図的なデブリの散布

プロジェクト・ウェストフォードと呼ばれる実験が、アメリカ・マサチューセッツ工科大学のリンカーン研究所によって1963年に行われた。これは長さ2cmの銅製の針を高度3500?3800km、傾斜角87?96度の軌道に散布し、これに電波を反射させることで長距離通信を可能にするものであった。当初の目的は達成されたものの散布された針は実に4億8千万個に及び、国際的な批判を浴びた。現在でも多くの針が軌道上を周回している。

カタログ化された大きいデブリとのニアミスを事前に予測して回避するのは可能であり、またmm単位のデブリなら宇宙船の方にバンパーを設けることで衝突した時のダメージを軽減できるが、その中間の大きさのデブリへの有効な対処は難しい。 デブリを減らすためには、使用済みのロケットや人工衛星を他の人工衛星と衝突しない軌道(墓場軌道)に乗せるか大気圏突入させる、デブリを何らかの手段で回収するなどの対策が必要である。これらの対策は少しずつ開始されているが、小さなデブリを回収する手段については(レーザーで溶かしてしまうというものまで含めて)様々な方法が提案されているものの、まだ実用化されていない。基本的なデブリ対策としては、地上におけるゴミ問題と同様に、ゴミを出さない(発生させない)ようにするのが最良策である。

1981年にはコスモス1275が破壊されて300個以上のデブリとなったが、この衛星には圧力容器のような爆発の原因となりうる内部構造が無いため、デブリとの衝突が疑われている。

1996年にはフランスの人工衛星セリース (Cerise) がデブリと衝突し、衛星の一部が本体からもぎ取られて新たなデブリになっている。衝突の相手は1986年にアリアン・ロケットが破壊された際のデブリのうちの一つであり、カタログ物体同士の初の衝突であった。

2006年にはロシアの静止衛星エクスプレスAM11 (Express-AM11) がデブリとの衝突によって機能不全に陥り、静止軌道から墓場軌道へ移動させられた。

2009年2月12日16時55分(UTC)には、北シベリア上空約790kmで機能停止中であったロシアの軍事通信衛星コスモス2251号とイリジウム社が運用中であった通信衛星イリジウム33号と衝突し、少なくとも500個以上のスペースデブリを発生させた。これは非意図的な人工衛星本体同士の衝突としては世界初のものである。

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宇宙空間に長期間曝露されていた物体の表面には多数の微小なクレーターが出来る。衝突したのがメテオロイドかデブリかは、クレーターの底に付着した残留物を分析したり、クレーターの形状から衝突速度を推定することで判断できる。

1983年に打ち上げられたスペースシャトル・チャレンジャー (STS-7) では、軌道上で窓ガラスに何か(おそらく人工衛星から剥がれた塗料の粉だろうと考えられている)が衝突し、深さ約0.5mmの微小クレーターが出来た。 また、1984年にチャレンジャー (STS-41-C) はソーラーマックスの外壁2.5平方メートルを回収したが、その表面には約3年の曝露により千個ものクレーターが作られていた。このうちの約7割が人工的なデブリによるものとされている。

その後、ハッブル宇宙望遠鏡の太陽電池パネル(1990年?1993年)、SFU(1995年?1996年)などの同様の調査により、時代が下るにつれて衝突頻度が加速度的に上昇していることも判明している。 つまり、現在、微小デブリとの衝突はきわめて日常的な出来事になっている。

2009年04月11日

自転と公転の同期

自転と公転の同期(じてんとこうてんのどうき)とは、互いの重力に引かれて共通重心の周りを公転している二つの天体の一方または両方が、常に相手に同じ面を向けて回転する現象である。すなわち自転周期と公転周期が等しくなっている現象である。身近な実例は地球の衛星である。月は自転周期と公転周期が同じ(約27.32日)になってしまっているので、常に地球に同じ面を向けている。

このような同期は二つの天体の距離が比較的近く、相手の天体が及ぼす潮汐力が強い場合に起こる。(また潮汐力による別の効果として軌道共鳴が生じる場合もある。)こういった同期現象は惑星や衛星に限らず、公転運動する固体状の天体に於いて一般的に起こりうる現象である。いっぽう液体状で変形自由な天体では、完全なロック状態は起きない。地球の衛星月は、生まれた過程で形状的中心と質量的重心がずれる現象が起きてから固まったので、起き上がりダルマのように安定しているのである。

互いに重力で引き合う二つの天体には、それぞれ相手の天体から潮汐力が働く。この潮汐力は、2天体を結ぶ軸の方向では天体を引き伸ばし、この軸に垂直な方向では天体を圧縮する向きに作用する。ここで潮汐力を受ける天体が十分に柔軟で、潮汐力の強さが十分に大きければ、天体の形がわずかに変形することになる。ある程度以上の大きさを持つ天体は一般に自己重力でほぼ球形をしているため、このような潮汐力が働くと天体は2天体の軸方向にわずかに伸びた楕円体となる(図(A))。

ここで、2天体の公転運動に合わせて回転する座標系に乗り、潮汐力を及ぼす方の天体 A(例:地球)から潮汐力を受ける天体 B(例:月)の相対運動を眺めるとする。

この回転系から見た時に、天体 B が天体 A に対して相対的に自転している場合には、天体 B の楕円体の形は安定ではない。天体 B の自転に合わせて B の赤道上の地点は楕円体の膨らみの部分を定期的に通過し、地面が上下することになる。ここで天体 B を構成する物質の粘性が無限に小さくない限り、この変形には有限の時間がかかるため、実際には天体 B の膨らみは天体 A に最も近い点ではなく、B の自転方向に少し通り過ぎた位置が最も膨らむことになる。すなわち、B の楕円体の長軸は2天体を結ぶ直線からやや外れた位置に来る(図(B))。

この B の膨らみが A からの重力を受けると、B の楕円体の長軸を A-B の直線上に揃えようとする方向、すなわち B の相対的な自転にブレーキをかける方向にトルクが働くことになる(図(C))。この作用によって A に対する B の相対的自転運動は次第に減速し、やがて B は A の方向に常に膨らみを向ける(A にいつも同じ面を向ける)ようになる(図(D))。

なおこの過程は、回転系で A から見た B の相対的自転速度がどちら向きの回転であっても同じように起こる。すなわち、静止系から見た B の自転周期が B の公転周期より速くても遅くても、最終的には B の自転周期と公転周期は一致する。ただし、静止系で見た初期状態での B の自転周期が公転周期よりも速かった場合には、B の自転は減速するため、角運動量保存則によって B の軌道半径が大きくなる。逆に初期状態で静止系から見た B の自転周期が公転周期よりも遅かった場合には、B の自転は加速し、軌道半径は小さくなる。

同期回転の例 [編集]
火星のフォボス・ダイモスや木星のガリレオ衛星を始め、太陽系の惑星にある、ほとんど全ての衛星は自転と公転とが同期している。また、惑星と衛星との距離が近く、両者の質量の差があまり大きくない場合には、衛星からの潮汐力によって惑星の自転周期も衛星の公転周期・自転周期と同期し、両者とも完全に相手に同じ面を向けたままの状態になる場合もある。惑星と衛星という関係ではないが、準惑星の冥王星とその衛星カロンとはそのような同期の例である。地球と月とは現在、月のみ自転と公転が同期した状態にあるが、地球の自転速度は徐々に遅くなっており、遠い将来には月の公転周期と同期するところまで遅くなって安定すると考えられる。

近接連星系の多くも互いの星の自転と公転が同期していると考えられている。また1990年代以降に多く発見されている太陽系外惑星のうち、ホット・ジュピターと呼ばれるような軌道半径が小さい巨大惑星はやはり自転と公転が同期していると考えられる。変わった例では、1997年にうしかい座τ星という恒星で発見された系外惑星は、通常とは逆に恒星の自転周期が惑星の公転周期と同期しているらしいことが分かっている

マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

2009年03月27日

ゲルマン部族の一覧

言語により東ゲルマン、北ゲルマン、西ゲルマンの三つに分類される。東ゲルマン語はすでに死滅している。→ ゲルマン語派参照。しかしこうした分類は近年の事であり、昔は全く異なる分類がなされている。

古代ギリシャ時代にはゲルマンという概念はそもそも存在せず、スキタイ諸族とケルト諸族に大別されていた。後のローマ時代には概ねオーデル・ヴィストゥラ諸族、ライン諸族、エルベ諸族、ジュトランド・デニッシュ諸族の四つに分類された。オーデル・ヴィストゥラ諸族は今日、東方ゲルマンと呼ばれるグループに相当し、残りの三族が西方ゲルマンと呼ばれるもので、移住せずにスカンジナビアに残った人々を北方ゲルマンとしている。またタキトゥスはバルト海沿岸部の諸民族が共通した文化を持つスエビ諸族であると主張したが、タキトゥスは「スエビ」が具体的にどのような共通文化を持つのか明言しておらず、実際に文化の連続性があったのか疑問が持たれている。歴史学者のアーサー・ポメロイは「(タキトゥスが)スエビとした複数の集団には全く共通性がない訳ではないが、それ以上に文化や言語で明確に異なる部分がある」と指摘しており、現代の歴史学および考古学ではバルト海沿岸部の住人は複数の民族に分かれるとする見解が一般的である。

古代から中世への過渡期には多数の蛮族がそれまで未開とされていた地域からローマへと侵入を開始した為、ローマ側の混乱や蛮族側の離合集散の中で一層に分類は乱れた。今日では明確に東方系の民族とされているアラン人がゲルマン人とされていた事がこれを物語っている。

東方ゲルマン [編集]
ブルグント人(ブルゴーニュ人とも)
ヴァンダル人(スラブ系のルギイ人との説もある)
ゴート人 ※東ゴート人も西ゴート人も元々同民族
東ゴート人
西ゴート人
クリミアゴート人

西方ゲルマン [編集]

北海 [編集]
アングロ・サクソン人(イングランド人の祖)
アングル人
サクソン人(ザクセン人とも)
フリース人(オランダ人の祖) ※現在フリース人は少数民族で今のオランダ人を形作るのはサクソン系の住民である。

エルベ川 [編集]
アレマン人(アラマニ人・アルマーニュ人とも)現在の上部ドイツ語地域に居住した。ケルト系との混血が進んでいるとされる。

ヴェーザー川・ライン川 [編集]
フランク人の中核となり、一部はザクセン人に吸収された。

バタウィ人 ※サクソン人やフリース人と混合しオランダ人の主要部を構成する。ケルト系との説もある。
カッティ人(ヘッセン人とも)現在のドイツ中西部に居住した。

北方ゲルマン [編集]
ヴァイキングとして各地に進出した。

ノルマン人 東方の民族や人種との混血(モンゴロイド起源説)を主張する仮説がある。
デーン人(デンマーク人の祖)
ノール人(ノルウェー人の祖)
スヴェーア人(スヴェリ族とも。スウェーデン人の祖)
ルーシ族(ルーシ)※実在するかについては議論がある。
ノース人

南方ゲルマン [編集]
仮に定義されている概念。 en:South Germanicによれば、北方ゲルマンの対立概念とされている。最も広義には北方ゲルマンを除くすべてである。しかしながら、西方ゲルマンのうち「北海ゲルマン」とされるアングロ・サクソン人やフリース人は起源が北方ゲルマンに近いものとされ、除外されることが多い。東方ゲルマンも一般には含まない。英語版のゲルマン諸語の分岐を示す図の載ったページでは東方ゲルマンを南方ゲルマンに含め、アングロ・フリジア語を南北いずれにも属さない独立の分枝としていたが、最近の修正では東方ゲルマンは除外されている。一方上記南方ゲルマンのページでは東方ゲルマンを北方ゲルマンに含める案が記載されている。
また、大陸で膨張した後の低地サクソン人(フランク人と近縁なウェーザー・ライン系諸小部族の要素が濃い)も含めるかどうか微妙なところがある。故に、狭義では種族史的な観点からフランク人と、南下したエルベ系諸族(アレマン、バイエルン、イタリアへ向ったランゴバルドなど)を含むが、言語分類の見地からはさらに狭く、高地ドイツ語地域に限定する場合が多い。

系統不明 [編集]
スエビ人 ※タキトゥスが存在を主張した集団。上述の通り、今日では適当な分類法ではないと考えられる(カッシウス・ディオは古くはケルト人であったと主張している)。
マルコマンニ人(ケルト系との説もある)※ローマ帝国への侵入を図り、マルクス・アウレリウスとのマルコマンニ戦争で滅ぼされた。
バイエルン人※現在の南ドイツ住民の祖先。母胎であるマルコマンニ人同様、ケルト系との説がある。
ロンバルド人(ランゴバルド人) ※ランゴバルド史では、今日のデンマークの北方、スカンディナヴィア半島から移住して来たと記されている。
ユート人(ジュート人) ※現在のデンマークからイギリスに移動し、アングロサクソン人と同化した。英国人とユダヤ人を同祖とみなす空想的な人々は、このユート人を、イスラエルの失われた10支族の末裔と考えた。スキタイ系との説もある。
アングロサクソン人に近縁として西方ゲルマンに含める場合が多いが、既にスウェーデン方面から来住していたデーン系に圧迫される過程で混血もみられたと考えられる。
フランク人 西方ゲルマンに分類されるが、厳密には民族ではない。
ウェーザー・ラインゲルマンの諸部族を主体とし、アングロサクソン近縁の北海ゲルマンなど他のゲルマン諸族、ラテン系・ケルト系の在来住民、スキタイ人やアラン人(サルマタイ)など様々な種族が参加した一種の連合政権であった。
現在の大陸ゲルマン語(ドイツ語・オランダ語)の「フランク」諸方言も基本的にウェーザー・ラインゲルマン系ではあるが、低地方言(オランダ語)には北海ゲルマンの、高地方言(バイエルン州北部など)にはエルベゲルマンの要素が見られる。

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2009年03月11日

リヴァプール (Liverpool)

リヴァプール (Liverpool) は、イギリス、イングランド北西部マージーサイド州の中心都市。ザ・ビートルズ発祥の地として名高い。かつて、奴隷貿易の中心港として繁栄したという負の歴史も有する。市域面積は111.84平方キロメートル、2005年の人口は447,500人。2008年の欧州文化首都の一つ。

アイリッシュ海に面し、マージー川の河口に位置する。18世紀より貿易港として発展した。近隣の都市としては、約50キロ東に位置するマンチェスター、約25km南に位置するチェスターなどが挙げられる。マンチェスターとは市域面積及び市域人口がほぼ同じ。

歴史
最初に記録に現れるのは1195年、"Liuerpol"または"dirty pool"としてである。それから12年後、1207年にジョン王が都市建設に勅許を出し、まだ村だったリバプールに自由都市の特権をあたえた。[1]。とはいえ、しばらくは小さな港で、16世紀中ごろの人口は600人程度であった。しかし17世紀末に近郊のチェスター港が泥の堆積によって衰退、チェスターに代わってイングランド北西部商業都市の代表格にのし上がり、郊外では製造業が成長し、アメリカおよび西インド諸島との貿易が増大するにしたがい町は繁栄した。 1715年、イギリス初の係船ドックが建設される。植民地との貿易が盛んになった18世紀当時のイギリスは、ヨーロッパからアフリカへ日用品や火器を、新大陸からヨーロッパへ砂糖などを持ち込む大西洋三角貿易において、ほぼ独占的な地位を築いていた。リヴァプールは、この北アメリカ、西アフリカをむすぶ三角貿易の拠点として中心的な役割を果たし、おもに奴隷貿易で急速に発展した。

三角貿易などを通じて資本蓄積を成し遂げたイギリスは、世界にさきがけて産業革命を進展させた。 こうしたなか、1830年にはリヴァプールと内陸のマンチェスターを結ぶ鉄道が開通し、60年代には鉄道交通の要所となる。綿織物工業が発展していたマンチェスターから運ばれた商品は、この街の港から世界に輸出され、19世紀末にはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」とまで呼ばれるようになった。シノワズリ(中国趣味)を摸した陶器生産の拠点でもあった。この間、多くの移民が主としてアイルランドから流入し、人口が急増。19世紀にはアメリカとの貿易および客船業務でイギリス第一の港へと成長した。最盛期は80万人近い人口を抱え、イギリス有数の工業都市・交易都市として栄えたリヴァプールだったが、第二次世界大戦時にドイツ軍のはげしい爆撃にさらされ、1940年代後半、綿貿易と繊維産業は急速に衰退した。さらに、1950年代以降イギリス全体が長期の不況に陥るのと並行して急速に斜陽化し、次第にその地位を低下させていった。だが、60?70年代には大規模なスラム浄化と再建計画がはじまり、現在は港湾部の各種施設やビートルズゆかりの建物などを利用した観光に力を入れている。
ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

18-19世紀の海港都市としての姿を残している一部の地区は「海商都市リヴァプール」の名で、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。

経済
港では、穀物・食料・木材・非鉄金属・繊維などを輸入し、アイルランド行きの客船もでている。製造業は、医薬品・電気器具・精糖・製粉・ゴム製品などが盛ん。郊外では自動車の生産や精油もおこなわれる。

飛行機
ジョン・レノンの名前を冠したリバプール・ジョン・レノン空港が市内にあるが、比較的近郊にあるマンチェスター空港のほうが規模が大きく、同空港からもリヴァプール行きの鉄道やバスが利用できるため、欧州系の航空会社などで日本から同市を訪れる場合には、マンチェスターをとりあえず目指すという方法もある。

鉄道
主な駅としてライム・ストリート駅があり、1時間に1本だが長距離列車でロンドンのユーストン駅まで2時間半。マンチェスターやバーミンガムなど、各地から列車が来る。

2009年02月23日

アルメニア語

アルメニア語(―ご、??????? /Hayeren)は、カフカス(コーカサス)地方の一国アルメニアの公用語。言語学的にはインドヨーロッパ語族に分類され、この言語だけで独立した一語派を形成している。表記には独自のアルメニア文字が用いられる。
オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン

序文で述べたように、アルメニア語は英語(ゲルマン語派に属する)やロシア語(スラブ語派)などのほかの印欧語と違って、単独で「インド・ヨーロッパ語族アルメニア語(派)」という独立した地位を与えられている。

フランスの言語学者アントワーヌ・メイエの指摘したように、アルメニア語はギリシャ語と語源的に並行した類似性を多く保持している。歴史の流れの中で、この言語はたくさんの語彙をペルシャ語(イラン)、次いでギリシャ語(6世紀)、トルコ語(11世紀)、フランス語(十字軍の時代から現代まで)、ラテン語(16世紀から18世紀)、そしてロシア語(現代)から借用してきた。

特にインド・イラン語派イラン語群の1つであるペルシャ語からの借用語が多く、そのため19世紀末頃までアルメニア語も同じくイラン語群に属するものと考えられていた。しかし、ドイツの言語学者ヒュップシュマン(Heinrich Hübschmann)による借用語の分離研究がおこなわれた結果、インド・イラン語派に属さない単独の語派であることが判明した。

分類
現在では言語的相違の観点から、歴史的に以下の3つに分けられている。

古アルメニア語(グラバル) - 独自の文字が創製された5世紀から記されるようになり、文学、神学、歴史学、詩学、神秘学そして叙事詩の分野において豊かな成果を残してきた。(ただし、アルメニア文字の発明以前から、別の文字による文献が存在していたといわれる)
中世アルメニア語 - およそ11世紀から17世紀のアルメニア語。このころには現在のトルコ南東部のキリキア(Cilicia)地方にキリキア・アルメニア王国(1198年?1375年)という、アルメニア人による独立国が存在していた。
現代アルメニア語 - 主に、次の2つの方言に大別される。
東アルメニア語 - アルメニア共和国の公用語であり、またイラン国内におけるアルメニア人の共同体において話されている。
西アルメニア語 - 主に、国外移住したアルメニア人によって話されている。これは、キリキア・アルメニア王国時代に形成されはじめたキリキア方言が時代とともに変遷してきたものである。
東西方言の違いとして主に次のことがいえる:

西方言でいくつかの閉鎖音が音韻推移をおこしたために、東方言と多少発音が異なる(後述)。
若干の文法的相違:格変化の形態に若干の違いがある、など
東方言はソ連時代に独自に正書法を改正したため、文書表記に違いがある。
例) ???????(東)/??????? (西) Hayeren 「アルメニア語」
この二方言の中にそれぞれ、細かく分類できる多くの方言をもつ。また、東西方言のどちらにも属さない方言も存在する。

話者分布
アルメニア人は多くが多くの国々に離散しているため、アルメニア語話者の総数ははっきりとつかめていない。一説には合計約700万人の話者がおり、その内およそ300万人以上がアルメニア国内とされている。また、アルメニア共和国内も含めてアルメニア人は多言語話者であることが多いといわれる。

東方言
アルメニア共和国で公用語に指定されており、その約300万人の国民のほとんどが東方言話者である。ただし彼らの中にはは英語やロシア語・フランス語など何かの外国語も話せる人が多いといわれている。

隣国では、東のアゼルバイジャン内のアルメニア人地域ナゴルノ・カラバフで公用語に指定されている。そのほか、ソ連時代に同じ国に所属していたロシアなどにも多くの話者がおり、またトルコ東部やグルジア、イランなどに居住するアルメニア人の間でも使用されている。

西方言
西方言は、もともとキリキア地方やその東部(現在のトルコ南部のアダナあたり?南東部のウルファのある地域)で話されていたが、歴史的事情により話者は多くの国々に移住しており、その人々により使用され続けている。主にアメリカ合衆国やフランスなどの欧米諸国に多くの話者がおり、ついでトルコのイスタンブールや南部・南東部、シリアやレバノンにいる。これらの国のアルメニア人コミュニティーの中で使われ続けている。またトルコからのアルメニア国内への移民の中で使っている者もいる。

中世キリキア・アルメニア王国の衰退時よりムスリム(イスラム教信者)の諸民族からの迫害を受け、それによりアルメニア人の一部は離散(ディアスポラ)し、コンスタンチノープル(現イスタンブール)やバルカン半島、さらには西欧諸国に移住した。その後も移住者は出てきていたが、とりわけ近現代、19世紀末から第1次世界大戦前後にかけてのオスマン・トルコによるアルメニア人迫害により、100万人以上が殺害され、他にも数十万人規模の国外移住者が現れた(一部話者はアルメニア共和国に移住)という(「アルメニア人虐殺問題」を参照)。このオスマントルコの迫害によりトルコでの話者は激減した。

このような経緯で、現在のトルコには確かに話者はいるが決して多くは存在しておらず、むしろアメリカやフランスなど西欧諸国に多くの西方言話者が存在するという状態である。

文字
アルメニア語では、5世紀初頭に発明された独自のアルメニア文字が使用される。字母は38字あり、それぞれに大文字と小文字がある。

また、アルメニア文字の句読点は西欧言語とは形や使用法が若干異なる。句点(日本語の「。」や英語のピリオド)は “:” であらわされ、疑問文などどんな文でもこの字が使われる。また疑問符は英語のように”?”を文末に使うという方法をとらず、” ? ”を相手に問う対象の語にアクセントのような形で付け加える。

音韻組織
以降の節における説明は東方言を中心に扱い、西方言との差異を補足的に述べることにする。

母音
現代アルメニア語の音声には次のものがある。

前舌 中舌 後舌
非円唇 円唇 非円唇 円唇
狭 [i] [?]* [u]
半狭 [e] [?] [o]
半広 [?] [œ]*
広 [a]

*はおおむね西方言にのみ現れる。
文字と音韻の対応は次のとおり。

? - /a/
? - /?/, /i/
? - /?/(曖昧母音)
? - /je/(語頭)、/e/あるいは/?/(それ以外)
? - /e/
? - /vo/(語頭)、/o/(それ以外)
? - /o/
?? - /u/(子音の前)、/ov/(母音の前)
?? - /i?v/(語尾および母音の前)、/?/(その他) (西方言のみ)
?? - /œ/ (西方言のみ)
なお、重子音がある場合、その間に ? にあたる曖昧母音が表記されずとも発音されることが多い。また語頭の二重子音の種類によっては、語頭に曖昧母音が表記されずとも発音されるものがある。ただし、これらの曖昧母音挿入によって文法上の音節数が増えるとは(一部例外を除き)考えない。東方言では、この表記されない曖昧母音は時に発音されないことがある。

子音
アルメニア語における子音としては下表の音素が音韻として存在する。枠中に2つの子音字がある場合は左が無声音、右が有声音で発音されることを表す。また、枠中の1行目は発音のIPAを、2行目は該当するアルメニア文字を、3行目はラテン文字への転写の代表例を示す。

両唇 唇歯 歯茎 後部
歯茎 硬口蓋 軟口蓋 口蓋垂 声門
鼻音 [m]
?
m [n]
?
n
無気破裂音 [p b]
? ?
p b [t d]
? ?
t d [k ?]
? ?
k g
有気破裂音 [p?]
?
p‘ [t?]
?
t‘ [k?]
?
k‘
摩擦音 [f v]
? ? *
f v [s z]
? ?
s z [? ?]
? ?
š ž [x ]
?
x [ ?]
?
ġ [h]
?
h
無気破擦音 [ t?s d?z]
? ?
c j [ t?? d??]
? ?
č ?
有気破擦音 [ t?s?]
?
c‘ [ t???]
?
č‘
接近音 [?]
?
r [j]
?
y
ふるえ音 [r]
?
?
側面接近音 [l]
?
l

? 西方言では ? だけでなく ? (hiwn) もおおむね [v] の発音を示す。? および ? 以外の字母の直後に? がある場合に [v] と発音される。一方東方言の新正書法では、[v] と発音する ? はすべて ? に変更されている。

アルメニア語の子音における特徴として次のことがあげられる。

破裂音および破擦音においては、各調音点ごとに「無気無声音」「無気有声音」「有気無声音」の3つの音韻の対立がある。たとえば軟口蓋音には ? (/k/,無気無声音)、? (/?/,無気有声音)、? (/k?/,有気無声音)の3つの音韻があり、それぞれ別の音として認識される。この音韻対立は、古典ギリシア語における閉鎖音の対立(κ, γ, χ など)と同様である。
英語などにおける "r" に対応する子音がアルメニア語には3つある。
英語のような接近音の /?/ -- ?
イタリア語のような巻き舌の /r/ ? ?
フランス語のように、のどひこを震わせる /?/ ? ?
これらの中で、単語における登場頻度は接近音の ? が一番高い。英語などでの "l" に対応する ? があることも考えると、日本語のラ行子音に相当する子音がアルメニア語には4つも存在することになる。

東西の子音字の発音の違い
分類の節で述べたとおり、アルメニア語の西方言は中世に音韻変化を起こしたために、破裂音または破擦音をあらわす文字の発音が東方言とは異なる。破裂音および破擦音の文字に関して東西の発音の対応関係を示すと、次表のようになる。

東方言 ? 西方言
無気無声音 無気有声音
無気有声音 有気無声音
有気無声音 (変化なし) 有気無声音

具体例を示せば、東方言において ?, ?, ? がそれぞれ /k/, /?/, /k?/ と発音されるのに対し、西方言ではそれぞれ /?/, /k?/, /k?/ と発音され、とくに ? と ? の発音に違いがなくなる。同様に、?, ?, ? が東方言ではそれぞれ / t?s /, / d?z /, / t?s?/ と発音されるのに対し、西方言ではそれぞれ/ d?z /, / t?s?/, / t?s?/ となる。

そのほか、? について一部発音が異なる。西方言では ? が語頭にくるときは /h/ と発音する。また語尾の -? は一部の単語を除いて発音されない。一方、東方言の新正書法では ? を一律に /j/ と発音するよう、語頭の ? を ? に替えたり語尾の無音の ? を省いたりして改正されている。

アクセント
アルメニア語のアクセントは強弱アクセントであり、原則的に単語の最終音節におかれる。ただし、語尾が -? (/?/)の場合はその前の音節におかれる。

文法
平での基本的な語順は、主語 - 目的語 - 動詞のSOV型である。またこの語順は疑問文においても文型は同じSOVである。ただ、アルメニア語の場合は西欧の諸言語に較べて若干語順が自由である。

また下に例示するように、アルメニア語は多くの印欧語族の言語と同じく屈折語であり、名詞や動詞などが文中におけるそれぞれの役割に応じて語尾変化する。

名詞
英語以外の印欧語ではかなり珍しい事に、名詞・代名詞の文法性が消えている。これは隣に位置するコーカサス諸語の影響と考えられている。 ただし、数の区別はあり、名詞などに単数・複数の区別がある。一般的に、名詞は単音節語の場合語尾に -??(-er)、多音節語の場合は -???(-ner) を付加することで複数形となる。

長い間同じ語派に属すると考えられていた現代ペルシア語とちがい、アルメニア語には名詞の格変化がある。すなわち、アルメニア語には主格・対格・属格・与格・奪格・具格・処格の7つの格があり(西方言には処格はなく6つ)、名詞の語尾は文におけるそれぞれの役割に応じて適切な格を表すよう変化する。

2009年02月07日

細川清氏・細川頼之・細川頼元

細川 清氏(ほそかわ きようじ、生年不詳 - 貞治元年 / 正平17年7月24日(1362年8月14日))は南北朝時代の武将で、室町幕府の執事である。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流 細川氏。父は細川和氏。兄弟に細川頼和、細川将氏、細川家氏。子は細川正氏。名は元氏で、後に清氏と名乗る。官位は左近将監、伊予守、相模守。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

伝記
三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。足利氏の一門である細川氏は、南朝との戦いでは北朝を擁する足利幕府に従い、足利家の内紛である観応の擾乱では将軍足利尊氏に属する。父の和氏は1342年(興国3年 / 康永元年)に死去し、清氏は叔父の細川頼春に従い、南朝や足利直義派と戦う。

1352年(正平7年 / 文和元年)に伊賀国の守護となり、1353年(正平8年 / 文和2年)6月に足利直冬が京都へ侵攻した際には殿を務め、近江の塩津において後光厳天皇を背負って山越えをしたと言われる。1354年(正平9年 / 文和3年)9月には若狭国守護、評定衆、引付頭人に加わり、相模守となる。翌1355年(正平10年 / 文和4年)の直冬勢の京都侵攻においては本拠の東寺を破り、1358年(正平13年 / 延文3年)には、2代将軍足利義詮から執事(後の管領の初見)に任命され、幕政の中枢へ進出する。1359年(正平14年 / 延文4年)12月には河内の南朝勢掃討を立案し、鎌倉から上洛した関東管領の畠山国清とともに出陣する。

清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り、分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動も多く、幕政では分国を巡る争いのあった斯波氏や、同格の仁木義長らの政敵も多かった。1360年(正平15年 /延文5年)5月、清氏と国清は南朝掃討のため河内へ出陣するが、兵を返して京都へ迫り、義長を排斥することに成功。

清氏は幕政の実権を握ったが、国清の鎌倉帰還や南朝勢力の進出で反対派は清氏打倒を計画し、1361年(正平16年/康安元年)9月には、清氏の留守中に将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぎ、清氏は弟の頼和、信氏らとともに分国の若狭へ落ち延びる。古典『太平記』では、清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏に野心があったと記されている。今川貞世(了俊)の記した『難太平記』では清氏は無実で、道誉らの策謀があったと推測している。

若狭へ逃れた清氏は無実を訴えるが、摂津国で南朝方に属する。12月には楠木正儀・石塔頼房らと京都を攻略するが幕府の反撃に遭い、1362年(正平17年 / 康安2年)には細川氏の国人層が強固であった阿波国へ逃れる。清氏は讃岐へ移り、義詮から清氏追討を命じられた阿波守護で、清氏の従弟にあたる細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の塩飽水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)を本拠に宇多津の頼之勢と戦う。古典『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。なお、清氏の実子である正氏は、その後も南朝に属して抵抗する。

坂出市には、清氏はじめ被官36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。

細川 頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき、元徳元年(1329年) - 元中9年/明徳3年3月2日(1392年3月25日))は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将・政治家・室町幕府管領。幼名は弥九郎。官位は従四位下、右馬助、右馬頭、武蔵守。生年は享年から逆算、一部異なる年齢を記す資料も存在する。

足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、また幼少の足利義満を補佐して、半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。

父は細川頼春で、母は黒沢禅尼。兄弟に細川頼有、細川詮春、細川頼元、細川満之。妻は持明院保世の娘で、室町幕府3代将軍足利義満の乳母となっているため、義満と同年代の実子が早世していると考えられている。養子に細川基之。弟である細川頼元は頼之の養子として管領となり、細川氏は室町時代を通じて斯波氏、畠山氏とともに管領家となる。

生涯
生い立ちから管領就任まで
三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。江戸期の逸話集『雑々拾遺』に拠れば幼くして聡明さを見せ、また『細川三将略伝』に拠れば従兄弟の細川清氏と力比べをしたなどの幼少時の逸話や、父頼春に伴われ夢窓疎石の法話を聞き感化された事実も知られるが、史料上の初見は足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱における阿波での軍事行動となる。将軍足利尊氏に従う頼春のもとにあったが、正平5年/観応元年(1350年)に阿波国守護の小笠原頼清が乱に乗じて南軍に属すると、頼春に代わり阿波に派遣されている。阿波在陣中の観応3年(1352年)には、南軍の京都侵攻で父頼春が戦死した。頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京し、尊氏の嫡子足利義詮に属し、讃岐の軍勢を率いた弟の頼有らと男山合戦に参加して南軍を駆逐する。

京都在陣中に阿波で再び南軍の活動が活発になると、頼之は父の分国を継承し、右馬助に任じられ阿波守護に補任されると、その後数年は領国経営に従事した。南朝側との戦い、阿波の小笠原氏や伊予の河野氏、国人勢力らとの戦いの中で次第に四国における領国支配体制を固める。中央では尊氏庶子足利直冬が南朝とも通じ、山名時氏ら反幕府勢力を結集させて京都を脅かし、中国地方から伊予国(愛媛県)に勢力を及ぼしていた。幕府では義詮を総大将に大規模な直冬征討の軍勢を起こす。阿波の頼之には伊予への発向が命じられ、1354年(正平9年/文和3年)には伊予の豪族河野通盛に代わって伊予の守護に補任される。翌年に義詮の軍勢が進発するが、越前守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還され、頼之は引き返した義詮とともに京都奪還に加わり、摂津神南合戦に加わる。南軍駆逐後は従兄弟の清氏ととも賢俊を訪ねるなど、しばらく京に滞在しており右馬頭に任じられている。翌1356年(正平11年/延文元年)には再び直冬征討軍が起こされる。頼之は備後守護に補任され大将として九州で勢力を持っていた直冬の追討指揮を命じられた。この時頼之は闕所処分権を将軍尊氏に拒否され、就任を固辞し阿波へ下国しようとするが、従兄弟の清氏に説得されて帰京したという。

阿波には有力被官新開氏を守護代とし、南軍への対処とした頼之は中国地方へ発向した。備前、備中、備後、安芸、伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与など軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使している。正式な幕職であるかは不明だが、頼之は軍事指揮者として「中国大将」と呼ばれているほか、地方統轄者としては「中国管領」と呼ばれており、長門探題として中国地方で影響力を及ぼした直冬に対抗させる意図があったとも考えられている。

頼之が直冬勢力を逼塞させ中国地方を平定している頃、中央では将軍尊氏が死去した。義詮が将軍家を継承し、従兄弟の清氏が執事職に任命されていた。1362年(正平17年/貞治元年)に清氏は斯波氏や佐々木道誉らとの政争で失脚し、南朝に属して阿波へ渡った。3月に頼之は将軍義詮から清氏討伐を命じられ、7月に讃岐国へ移った清氏勢を宇多津(香川県綾歌郡宇多津町)で滅ぼす。

清氏討伐中に直冬勢力は再び活動するが、大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰服しており、直冬勢力は鎮圧された。時氏の説得工作には頼之も関わっているとも言われる。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され、細川氏としても中国地方の分国を失っている。代わって讃岐・土佐の守護を兼ね、四国管領に任じられ、河野氏を追討して四国を統一する。幕府の管領となっていた斯波義将、父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の政変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で1367年(正平22年/貞治6年)2代将軍足利義詮の死の直前に管領に就任する。

管領時代の執政
管領となった頼之は、佐々木道誉や赤松則祐をはじめ反斯波派の支持を得て、就任当時11歳の3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わる。執政を開始した頼之は、内政面では倹約令など法令の制定、1368年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行する。

応安3年(1370年)8月には、北朝において後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問すると、崇光上皇が実子栄仁親王が正嫡であると主張したため皇位継承問題が発生した。頼之は事態収拾は聖断によるべきと深入りを避けつつも天皇側を支持するが、上皇側は義詮正室渋川幸子らに運動して対抗すると、頼之は光厳院の遺勅を示して介入を封じた。またばさらと呼ばれる華美な社会風潮を規制する。

さらに比叡山など伝統的仏教勢力と、五山の南禅寺など新興禅宗勢力の抗争からも政治問題が発生する。天竜寺住職春屋妙葩の発議で進められてた南禅寺の楼門建造を幕府は助成していたが、南禅寺と園城寺の抗争から南禅寺僧定山祖禅が著作において天台を非難すると、叡山側がこれに猛抗議して朝廷に定山祖禅の流罪と楼門の破却を求めた。山門側が神輿を奉じて入京すると、頼之は内裏を警護させ強訴を阻止し、朝廷の要請もあり定山祖禅は流罪に処したが楼門造営は続行させた。山門側は尚も破却を求めて強訴を続け、朝廷や諸将も山門を恐れたため遂に屈し、7月には楼門撤去を決定する。五山側では春屋妙葩が住職を辞するなど幕府の裁定に抗議し、五山側とは溝が生じることとなった。

対南朝政策では交渉を進め、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功し、1370年には個人的交友もあった今川貞世(了俊)を九州へ派遣して懐良親王ら南朝勢力を駆逐させ、九州制圧を後援する。

康暦の政変
頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、義詮正室の渋川幸子や寺院勢力介入、南朝の反抗などで難航した。また、今川貞世の九州制圧も長期化していた。こうした中、頼之は辞意を表明して義満に慰留されることで信任を回復することも何度かあった。1379年(天授5年/康暦元年)、細川氏が紀伊の南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせる。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らも参加して将軍邸を包囲した。この康暦の政変と呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて領国の四国へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された。

斯波派は頼之の討伐を望んだが、これは義満が抑えた。しかし、政変を知った河野氏は、南朝から幕府に帰服すると、斯波派と結んで頼之討伐の御書を受け、頼之と対抗した。攻撃された頼之は、管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務めており、その力で河野氏や細川清氏の遺児の正氏らを破り、1381年には河野氏と和睦し、分国統治を進めていった。

頼之の復権と晩年
頼之の弟の細川頼元は幕府に対して赦免運動を行い、1389年(元中6年/康応元年)の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐国の宇多津で赦免される。1391年には斯波義将が管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京する。後任の管領に弟の細川頼元が就任すると、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰した。義満は頼之の管領復帰を望んでいたが、頼之は既に出家していたためにこれを辞退した。その代わりに頼元を管領とし、頼之をその補佐としたのである。このため義満は、幕府役職にない頼之が幕政に参画しやすくするために、将軍の私的な会合に近かった御前沙汰を開催して僧侶である頼之を加えた形式で幕府の重要事項の審議を行った。なおこの先例は、後に義満が嫡男足利義持に将軍職を譲って出家した後に、自らが幕府の会議を主宰するためにも用いられた。

1390年(元中7年/明徳元年)には備後国の守護となる。この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦う。1392年に風邪が重篤となり、3月に死去。享年は64。

葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。

人物
文化的活動、信仰
和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰している。また、軍事作法について記した書状も存在している。頼之は幼少に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都に景徳寺、地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行う。


京都での頼之の邸は、火事見舞いの記録などから六条万里小路(京都市中京区)付近と考えられており、幕府が花の御所(室町第、京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所であった。

エピソード
幼少時には聡明さを見せ、また従兄弟の清氏と力比べをした。
管領を辞任して出家すると言い、義満に引き止められた。
評議の場で故意に義満の怒りを買い、将軍の権威を高めようとした。
明徳の乱に従軍した折、寺院で供え物を拝借した。
ほか

細川 頼元
細川 頼元(ほそかわ よりもと、興国4年/康永2年(1343年) - 応永4年5月7日(1397年6月2日))は、室町時代の幕府管領。父は細川頼春。細川頼之や細川頼有の異母弟で、頼之の養子となる。正室は赤松則祐の娘。子に細川満元、細川満国。娘は宇都宮基綱の室となる。幼名は聡明丸、通称は三郎。元の諱は頼基。右京大夫。

1379年(康暦元/天授5)に、管領である兄の細川頼之が斯波家を中心とするクーデター・康暦の政変で失脚すると、兄とともに四国へ下るが、翌年に頼之が将軍足利義満から赦免されると1391年(明徳2/元中7)に斯波義将に代わり管領となる。頼元以後も細川京兆家は三管領の1つとして室町幕府の管領を務める家柄となる。1397年に死去、享年54。


2009年01月22日

アッバース朝(?????? ???????? al-Dawla al-‘Abbāsīya)

アッバース朝(?????? ???????? al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(世俗王朝として750年 - 1258年、カリフ位は750年 - 1517年)。

イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められた。東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった[1]。また、イスラム科学と呼ばれる当時世界最先端の科学が生まれ、後のヨーロッパ世界に多大な影響を与えた。

しかし、9世紀からアッバース朝は衰退し始め、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされた。カリフ位はマムルーク朝に保護され、オスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。

アッバース朝の国旗は黒色であるが、これはウマイヤ朝の白色に対抗したものである。ウマイヤ朝の白色、アッバース朝の黒色、ファーティマ朝の緑色は現在のイスラム諸国の国旗の色としてよく見られる。

後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。

アッバース家は、ウマイヤ朝時代末期にウマイヤ家と異なってムハンマドに近しい血を引くことから支持を集めた。745年頃アッバース家の当主イブラーヒームによってイラン東部のホラーサーン地方に派遣されアッバース家支持の教宣活動を行っていたアブー・ムスリムは、この地でアッバース家の決起を望む人々と、ウマイヤ朝よりもムハンマドの血筋に近い者のもとに支配されることを望むシーア派に近い人々を糾合して747年に蜂起し、749年に当時のイラクの中心都市クーファを占領、ここにイブラーヒームの弟アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を迎えて新しいカリフに推戴した。翌750年、アッバース朝はダマスカスに拠るウマイヤ朝を破って最後のカリフ、マルワーン2世を敗死させ、完全な王朝交代を成し遂げた。ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世はシリアからイベリア半島まで命からがら逃亡し、後ウマイヤ朝を建国した。

このアッバース革命とも呼ばれる新王朝創設の過程は、イランにおいて起こったことから、ウマイヤ朝時代に抑圧されていた非アラブ人のペルシア人の役割が大きかったとするのが通説である。事実、ウマイヤ朝時代にはアラブ人には課されていなかったハラージュがアラブ人に対しても課されるようになり、アラブも非アラブもムスリムであれば名目上全く差別されない制度が完成した。アラブ帝国から非アラブにとっても平等といわれる真のイスラム帝国となったのである。もっとも、ホラーサーン地方はアラブ帝国の東部辺境にあたることからウマイヤ朝以前から多くのアラブ人が入植しており、やはりアラブ人の軍事力によるところも大きかったという反論もある。

初代カリフアブー・アル=アッバースの短い治世ののち第2代カリフマンスールは、先代の都であるハーシミーヤがシーア派の尊崇する第4代正統カリフ、アリーの故都であるクーファに近いことからシーア派の影響力が高まることをおそれ、チグリス河畔のバグダードと呼ばれる集落の場所に、762年から新都マディーナ・アッ=サラーム(「平安の都」)を造営した。マンスールはアブー・ムスリムを含む有力者を排斥してカリフ権を強化し、旧アブー・ムスリム子飼いのホラーサーン軍と、ペルシア人を多く含む文官たちをバグダードに集めて中央集権的な国家を建設する一方、シーア派を圧迫してスンナ派のカリフとしてのアッバース朝の性格を明らかにし、王朝の実質的な創設者となった。また、マンスールはビザンツ皇帝に数学の翻訳書を送るように要請した。ビザンツ皇帝はユークリッドや自然科学の書を若干送ってきて、アッバース朝の学者はその内容を研究した。

権力の向上とともに、アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)」「信徒たちの長(アミール・アル=ムウミニーン)」に加えて、「イマーム」「神の代理人(ハリーファ・アッラーフ)」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。しかしこの絶対化の一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンナ派の指導者としてのカリフの特性があらわれている。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

アッバース朝は第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、ペルシア湾ルートを交易路(シルクロード)とする国際貿易の結節点でもある首都バグダードが繁栄をきわめた。しかし、ハールーンの死後に後継者争いが起こって混乱のきざしがあらわれるとともに、内紛により疲弊したホラーサーン軍に代わって、テュルク系の遊牧民出身の解放奴隷からなるマムルーク騎兵たちが軍事力として採用されるようになって、アッバース朝の繁栄を支えた基盤に揺らぎが見え始めた。

第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学をアラビア語に翻訳するため、ビザンツ皇帝に使節や翻訳家を派遣したので、多くの文献が保存された。また、バグダードには知恵の館と呼ばれる学校・図書館・天文観測所を含んだ一種の総合研究所を設立し学問を奨励した。そこの翻訳所でもギリシア哲学の諸文献がアラビア語に翻訳された。アッバース朝の学者はギリシア哲学を研究し、先人たちを凌駕した。それらはイスラム科学と呼ばれる。

9世紀のアッバース朝は、肥沃な農業生産力と好調な東西交易の中継地点であるイラクに支えられ、繁栄を謳歌することができた。しかし、やがて勢力をもったマムルークは権力を増大させてカリフの改廃にすら関与するようになり、地方では総督たちが中央政府への送金を怠って地方に勢力を築き始めた。さらに総督の中から、ターヒル朝(821年建国)、サッファール朝(867年建国)、トゥールーン朝(868年建国)、サーマーン朝(875年建国)と、アッバース朝の名目的支配のみを認めて実質上の王朝を創始する者が次々にあらわれ、アッバース朝は急速に全帝国の支配力を失っていった。

2009年01月15日

山地は圧縮力

ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

第四紀になると、山地は圧縮力によりさらに隆起し、低地はさらに低くなってそこに河川が大量の土砂を運んだため、厚い堆積物に覆われた盆地が発達していった。横手盆地の奥羽山脈沿いには現状でもいくつかの扇状地が形成されているが、横手市平鹿町上吉田から同市大雄阿気を経て大仙市角間川に至る広範囲にわたって緩勾配ながら扇状地状の様相を呈しており、これを小田島宏は「古雄物川扇状地」と呼称している[3]。また、横手盆地の中央部、下吉田、田村の両地区の地表近くには、そこが湿地帯であったことを示す泥炭層[4]が分布しており、最も新しい泥炭層は完新世(約5,000年前)まで下るという分析結果が出ている。

約1万年前、完新世に入ると、それまで続いていた氷河期が終わり、気温の上昇により縄文海進が起こった。縄文海進の最も進んだ縄文時代早期末葉から前期前葉にかけては、海面の高さは現在よりも3メートルないし5メートル前後高かったと考えられる。河川の水量も多かったとみられ、とくに勾配の緩やかな横手盆地は蛇行帯も広く、現在、盆地における最低位段丘とされる標高差数メートルの河岸段丘も、この時期あるいはこれに相前後して形成された可能性がある。雄物川は盆地内でその流路を幾度か変え、やがて奥羽山地側(東側)から支流の河川が土砂を運び現成扇状地ないし沖積地を発達させたことで、流路を徐々に西へ移動させていったものと推定される。

満徳長者・地福長者伝説
「鳥の海の干拓」の長者伝説は「三熊野社別華厳院古記」に記載された伝承であるが、また、これとは別に「秋田六郡三十三観音巡礼記」には、

長者森の満徳長者は、卜部保昌といい、出家して保昌坊と称した。かれは、紀伊国の熊野の霊所に詣でて上洛し、仏師定朝に観音三十三体を造らせ、教円阿闍梨の開眼供養をうけて帰り、秋田三十三観音札所を草創した。また、平鹿、山北、雄勝の各郡に吉沢・杉沢の流れを用水としてひき、百姓に田畑を多く耕作させて、大きな屋敷に住み、蔵を数えきれないほどもち、牛馬、犬、鶏も多数飼って富み栄えた。その系譜をたどれば地福長者もその一族であり、それぞれ、清原光頼・清原武則と血縁関係にある。
という満徳長者・地福長者の伝説の記載がある。

歴史的背景
明永・明保長者による「鳥の海の干拓」も、満徳・地福長者の伝説も、鎌倉時代以降に成立した伝承と考えられるが、いずれも古い時代の横手盆地の開発を物語ると考えられる。丘陵を切り開いて湖水を流し出して干拓するという明永・明保長者の人智、人力を超越するような働きは、言い換えれば、膨大な数の民衆を駆使して大がかりな土木工事をとりおこない、用排水を大々的に整備して、低湿地をどんどん耕地に変えていった開発領主の姿である。ここに、御嶽・副川などの式内社に出てくる神が登場しているのは、横手盆地の開発が、これらの信仰と固く結びついて展開されたであろうことを示唆している。

満徳・地福長者の伝承については、それぞれが富貴をあらわす縁起のよい名がつけられており、11世紀から12世紀にかけて全国各地でみられる伝説と共通点が多い(ただし、それだけで伝承の成立年代まで結論づけることはできない)。この2人の長者もまた、多数の百姓をかかえる開発領主であるが、ここでも御嶽信仰、熊野信仰が結びついており、中央、地方にまたがる由緒づけがなされている。とくに長者の系譜に出羽清原氏が登場している点が注目される。ここで『陸奥話記』の前九年合戦における清原軍の陣立てなどをみると、清原氏が各地の領主層と思われる吉彦(吉美侯)氏や橘氏を組織し、陸奥側の安倍氏に匹敵もしくは凌駕する軍勢の動員力を有している点からみて、「長者」と清原氏の間に何らかの関係があったと考えて決して不自然ではない。

いずれにせよ、この2つの伝説は、古代末期から中世初頭にかけての、辺境における農地開発や在地権力の形成の様相の一端を示すものではないかと考えられるのである。